酒は古くから飲まれていた

酒の古名はクシという。

古くは薬のことをクスシといい、また飲むと酔ってしまう不思議な作用から「奇し」という意味にも通じている。

クシが短まってキとなった。

御神酒のキである。

『古事記』には「御酒」とか「大御酒」とあって、神話時代の天皇たちは、じつによく御酒を飲んでいる。

サケという言葉も同時に登場していて、大御酒蓋という酒器も現れる。

ところが、サケの語源としては、決定的な説が見当たらない。

『広辞苑』ではサケのサを接頭語、ケをカ(香)と同源としている。

また、酒の女房詞とされるササについては、サケのサを重ねた語で、中国で酒のことを竹葉というのに基づくとする説をとっている。

一五世紀に書かれた行誉の『塩嚢紗』にも「酒を竹葉といふのは只これ酒の異名なり」とある。

清らかな飲み物

サケを「日本酒」と呼ぶのは、もはや当たり前になった。

テレビの料理番組でも、昔は「酒大さじ一杯」などといっていたのに、最近はもっぱら「ニホンシュ」だし、料理人によっては「ニッポンシュ」と連呼していることもある。

しかし、長い歴史を誇る日本の「酒」をニホンシュと呼ぶようになったのは、つい最近のことだ。

酒を簡単に定義すれば「米を原料に醸造したアルコール飲料」となるが、清酒も濁り酒もこれに含まれるわけで、現在のように清酒のみを日本酒というのはいかがなものだろうか。

いまいわれている日本酒は、やはり、酒あるいは清酒が本来の呼び方なのてある英語では「sake」という。

迎賓館や首相官邸での晩餐会で外国の賓客に出される場合も、メニューにはそう書いてある。

しかし、一見してわかるように、英語でさえ、サケと呼んでいるのだ!と声高に叫んだところで、はた、と考えてしまった。

では、サケの語源はなんなのか。

全てが平等の酒場物語

タパドのおやじが、語り手である私(チョーサー)に話しかけるところがある。

「彼はいったbr />

『いったいあんたはどうしたんです。br />

自分の兎でもつかまえようとしているように見えますよ、

下をむいて、地面をじっと見つめていて。

こっちにいらっしゃい、あんた、目を上げて、陽気にやりましょうや!

旦那方、席をあけて、この人を入れてあげて下さい。

この人は、私と同じぐらい腰まわりがほっそりして、どんな女性も抱っこできるようなちびっこです。

ちっちゃくて、かわいい顔をして。

妖精みたいでしょう。

この人は、ことばを、たわむれにしゃべったりしないんですよ。

さあ、他の連中のように、あんたもなにかしゃべりなさいよ。』」

チョーサーが亭主にひっぱりだされて、どぎまぎしている様子が浮かんでくる。

チョーサーは酒場という空間を選びだして舞台とすることで、

さまざまな面を、「これも人生」という平等性のうちに描きだすことに成功している。

酒の席ならどんな話もOK

粉ひきの男はいう。

「聞いてくれ、みんな、おれのいうことを。

まずはじめに、いっとくべきことは、おれが酔っぱらってるってことだ。

自分でもしゃべり方がおかしいってわかっている。

もし、おれの話が混乱したら、それはサザークのビールのせいだと承知してくれ。

じき、年寄りの大工とその妻の伝説と生涯の話をしよう。

若い学生がやってきて、いかに大工の妻を寝とったかを……」

ここで町会長が怒りだす。

そういった話は、罪深いし、馬鹿げているというのである。

これに対して、粉ひきは、「古きわが友オズワルドよ、これも人生さ」と答える。

酒場においては、わいせつで、不道徳な話も許容されるのだ。

たとえ坊さんが同席していても、そこは、ざっくばらんで、民主的な席なのであるから。

どんな話であっても、それもまた人生の一面であるなら、他の話と同じようにここで語られる権利を持っているのだ。

司会者は実力のある人物に

酒場でさまざまな人々が混じりあうことは、支配者側には不安の種であった。

十四世紀には多くの農民一揆が起こったが、その決起の相談は酒場でなされることが多かった。

そしてしばしば、酒場のホストがそれを指揮したのである。

タバドのおやじも魅力的な男である。

酒場の主人は、さまざまな人々が集まっている場をうまくとりまとめなければならない。

チョーサーはそれをマーシャル・イン・ア・ホール(広間の大将)と呼んでいるが、

タバドのおやじはそれにふさわしいわけである。

彼は酒席での平等性を保ち、けんかを仲裁し、座を白けさせないようにする。

『カンタベリー物語』では、まずはじめに騎士の話がある。

それが終ると、司会者であるタバドのおやじは、次に修道僧に話させようとする。

ところがこの時、粉ひきが割りこんできて、ぜひ自分に話させうという。

彼は酔っぱらって青くなっている。

誰でも参加できた酒場

まずタパドのホスト(主人)を紹介することにしよう。

「わがホストは私たちを大歓迎した。

めいめいが席をすすめられ、食事がはじまった。

彼は私たちの期待できる最上の料理を出した。

酒は強く、飲むのは楽しかった。

そして、わがホストはおどろくべき男で、広間の大将にふさわしかった。

彼の目はきらきらしていて、腹はちょっと太めであった。

チープサイドでこれほどの男は他にいなかった。

そのことばは大胆で、しかも賢明であり、如才なかった。

男らしさのすべてを彼は兼ねそなえていた。

さらに彼は陽気な男で、食事が終ると、彼は面白おかしく、スポーツやその他の話をした。」

さまざまな国々のさまざまな階級職業の人々が一堂に会して、飲食をするというのが、宿屋=酒場の空間の特徴である。

酒場で始まるカンタベリー物語

4月の心地よい雨が降り、さわやかな風が吹き、花が咲きだすと、イギリス人はその陽気に誘われるように、

カンタベリー巡礼に出かけたくなる。

「そんなふうな季節のある日、サザークなるタバド亭で、信心深い私はカンタベリーへの巡礼に出発しようと準備していた。

夜になって、この宿に種々雑多な29人の一行がやってきた。

彼らはやはりカンタベリーへの巡礼者であった。

この宿の部屋やうまやは広々していて、居心地がよく、すべてが最高だった。」

十四世紀末に書かれたというジョフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』はこのようにはじまる。

タパドに集まった巡礼者は、坊さんから、商人、職人などさまざまな階級職業の人々であり、彼らは一人ずつ話をはじめる。

チョーサーの酒場

ロンドンの旧市街からロンドン橋を渡って、テームズ川の右岸に出ると、ここからパラ・ハイ・ストリートが南へのびている。

この道路はロンドン市への正面玄関で、ここを訪れる王侯貴族は、この道を美々しい行列で進んだ。

パラ・ハイ・ストリートを南東へ行くと、トーマス・ベケットの墓のある聖地カンタベリーがあり、

さらに進むと、大陸への出発点であるドーバーに着く。

ロンドン橋を渡ったあたりのサザークは、カンタベリーへの巡礼者や、大陸への旅行者、

また、夜おそく到着して、ロンドン橋が閉まっているので、入市できない訪問者たちの宿が並んでいた。

十四世紀にはバラ・ハイ・ストリートの東側にタバド・インという宿屋があった。

タバドというのは、騎士が鎧の上に着る上衣または、伝令使の紋章入りの官服のことである。

酒を作った女たち

イギリスではビールつくりの女をブルースターと呼んでいる。

女たちは酒をつくり、男たちをもてなしたのであった。

十四世紀の前半は、ヨーロッパは危機に見舞われた。

あるいはそれは、中世が終りかけ、ルネサンスの時代がこようとする過渡期現象だったかもしれない。

13155年には大飢饉がヨーロッパ中にひろがり、1338年には100年戦争がはじまった。

1347年には黒死病がヨーロッパに上陸した。

それはアジアから黒海沿岸のクリミア半島のカファ(フェオドシア)に達し、この港にワインを運んできて、

帰りに魚、毛皮、小麦を積んで帰るイタリアの商船に乗ってヨーロッパに姿をあらわし、

シチリア、トスカナ、ジェノア、ヴェネチアに飛火し、そこからヨーロッパ中に燃えひろがった。

しかし十四世紀の後半から、ヨーロッパは危機のうちにも、しだいに活気のある庶民生活をとりもどしはじめる。

酒場もまた新しい時代をむかえようとするのである。

鉄は再びリサイクルされる

現代では、交通量のはげしい都会の道路で水道管が破裂し、水が吹き出すといった事故のニュースをよく耳にします。

家庭に配管されている細いパイプは、ほとんど塩化ビニールなどの化学製品ですが、道路の下に埋設された太い管は、多くのばあい水道もガスも鋳鉄管と呼ぶ鉄と炭素の合金で作られたものです。

溶けた鉄を高速で回転する水平に置いた筒状の鋳型に流しこむと、遠心力で鋳型の内壁に鉄が集まりパイプができるので、遠心鋳造法と呼んでいます。

能率が良いので、鋳鉄管は近年はおもにこんな方法で作られ、さび止めの塗装をして、地中に埋められています。

長年使っていると、地中の水分などの影響で、外側から腐食したり、上を通る車の振動などで割れてしまいます。

銅の鐘と同じように、これで一生を終わり、掘り出され、屑鉄となって、ふたたび鉄管づくりの原料になるのです。

ロートアイアンは腐食に強い、美しいゲートです。

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